離婚活動&国際再婚までの軌跡

離婚活動と言語交流Tandemを使って国際再婚を目指すブログです。

今日の一日

我々家族は普段めったにテレビを見ません。

Our family rarely watches TV.

日曜日は家族みんなで一緒にテレビを見ます。

On Sunday, the whole family watches TV together.

今日は子供たちができることが多くなって、親としてとても嬉しかったです。

As a parent, I was very happy that there are many things my children can do today.

今日は子供達が草スキーを一人で出来るようになりました。

Today, my children can go grass skiing by themselves.

今日は長女が滑り台を一人で滑ることができました。

My oldest daughter was able to slide on the slide by herself today.

happymail.jp

自己紹介。社会人教員時代編です。

33歳にして初めて正社員となりました。
同期と約10年も遅く社会に出ました。
相当出遅れているかと思います。
ただこの時はとにかく引きこもりから脱出できたと
いう感じがとても強く、もう悩まなくて済むんだと
嬉しく思っていました。
両親と姉もとても喜んでいたことでしょう。
私が引きこもっていたときに思ったのはやはり
引きこもりからの脱出は正社員になることでした。
フリーターでは駄目なんです。
引きこもっていた状態からフリーターになったとしても
自分自身では引きこもりから立ち直ったとは言えませんでした。
それと引きこもりからの脱出の証として結婚です。
私は33歳のときに初めて正社員になりましたが、
京大時代の同期はとっくに結婚していて子供ももういるのが
普通でした。世間的に見ても結婚の平均が確か28歳くらいだったので、
完全に出遅れていましたね。
しかしとりあえずは正社員として就職できたことが
何より嬉しかったので結婚のことは少し忘れていたような気がします。

浮かれるような気持ちで33歳の年に教員生活が始まったのですが、
ここからがまた苦難の始まりでした。
というのもやはり私自身メンタルが弱いのが影響しているのか
どうかわかりませんが、とにかく仕事ができない駄目教員でした。
授業も下手で生徒指導もできなくてとても能力不足を感じました。
優秀な先生たちは2年目から担任を任されるのですが、
私は初めて担任を受け持ったのが教員生活4年目でした。
このことからやはり上層部から仕事ができないという烙印を
押されていたのだろうと思います。
次の年の5年目には担任から降格させられたので、
やはり仕事ができないというレッテルを貼られていたようです。
もちろんそのことは苦しかったのですが、
引きこもっていたときに感じていた希死念慮は無く、
それはとても不思議でした。
言うのが遅くなりましたが、27歳からフリースクール
スタッフとなった時も希死念慮は感じませんでした。
この希死念慮がなかったのにはとても救われました。
前にも述べたかもしれませんが、引きこもっていた時には
死にたいなと常々思っていたので希死念慮がとても強かったです。
この気持ちは無くなることがあるのあろうかと不安でしたが、
フリースクールスタッフ時代も教員時代も
希死念慮は全くありませんでした。
ただこの後の人生で希死念慮がまた出てくる時がやってきますが、
それはまた後で書こうと思います。

教員生活は駄目教員のレッテルを上層部から貼られていたのですが、
生徒と触れ合うのはとても楽しく、仕事ができないながらも
楽しいこともありましたので、この時は単なる仕事のできない
サラリーマンという感じでしたね。
ここで私の心の中で引きこもりからの脱出の証として
正社員になることと結婚が重要な要素でした。
正社員になったことで一つの課題はクリアしましたが、
もう一つの課題はクリアできていませんでした。
私は33歳で教員になったので私より年下の先生たちはたくさんいて
順調に結婚していかれる方々ばかりでした。
他の先生の結婚を尻目に、私自身結婚どころか彼女すら
おらず、とてもコンプレックスを感じていました。

学校の先生という仕事はとても忙しいので、
結婚される方々は大学時代から恋人がいた
先生たちが多く、それか職場で知り合って結婚するくらいしか
選択肢がありませんでしたね。
私は就職が遅かったので給料も低く、普段がとてつもなく
忙しいので出会いもゼロなので恋人も出来ませんでした。
職場恋愛をしようにも私にも好みがあったので
なかなか良いご縁には恵まれないまま時間だけが
過ぎ去っていきました。

このままでは一生結婚できないと思い、
婚活パーティーにも出かけるようになりました。
ただここでもマッチングはするのですが、
なかなか交際まで発展せず、焦りは募るばかりでした。
そこで週末に婚活パーティーに参加するのではなく、
費用はかかりますが、
大手の結婚相談所に入会することを決めたのです。
この結婚相談所でももちろん苦戦はしていたのですが、
実は私は大学時代に薬学部の彼女がいたので、
薬剤師さんと結婚したいなと強く思っていました。
理由は私がメンタルが弱いので働いていても
またどこかのタイミングで精神の不調をきたすと
大変なことになるので、私ひとりが一家の大黒柱に
なるのではなく、お嫁さんの方も安定して働いてくれる
女性を希望していたのです。
情けないといえば情けないですし、
計算高いといえば計算赤いですし、
とにかくひとりで生き抜いていく自信はなかったので
奥さんにするなら絶対に薬剤師さんと結婚したいと
思っていました。
相談所でも薬剤師さんで探しましたし、
真剣交際を申し込んでも断られることももちろんありました。

そんな中で現在の妻と知り合ってお互いに条件も合致したので
とうとう教員生活4年目で結婚しました。
正確には教員生活4年目のときに妻と交際を始めていました。
入籍は教員生活4年目のときにして、結婚式は5年目にしました。

これで私の心の中での引きこもりからの脱出条件の
正社員と結婚の2つをクリアしたのでした。

今日はこの辺で終わりにして、
次回は薬学部時代編です。
楽しみにしていてくださいね。

自己紹介。社会人フリースクールスタッフ時代編です。

今回は25歳で精神保健福祉士の養成学校を
卒業したあとのことから書こうと思います。
精神保健福祉士の資格を取得してもまたも引きこもってしまい、
まだ社会に出るのが怖かったのもありました。
それ以上に面接で言われたように京大卒のあなたには
精神保健福祉士の仕事よりももっと別の分野が向いていると
面接官に言われたことも頭に残りました。
自分自身京大を出て一流企業に入社して一生安泰と
安易に考えていたこともあり、
実際に友人たちは皆一流企業や理系官僚になっていったこともあり、
私自身精神保健福祉士の仕事に就職するのに余計な
高いプライドが邪魔をしてしまいました。
人生こんなはずじゃなかったと心の奥底で
思っていたのだと思います。
せっかく京大卒というカードを持ったのに
それを活かせず完全に自己責任ですよね。
自業自得だと思います。
26歳の時もずっと家に引きこもっていました。
無意味な一年間を過ごしたと思っています。

確か27歳の時でした。転機が訪れました。
姉の小学校の担任の先生がフリースクールを立ち上げたのを
新聞で知り、ちょっと行ってみようと思ったのです。
勉強なら少しは教えることができるかなと思っていました。
早速行ってみたところ、その場ですぐに
このフリースクールのスタッフにならない?と
言われました。
予想外でしたが、私も特にやることもなかったので
勉強くらいなら教えることができるかもしれないですねと
フリースクールの代表に行っていきなりスタッフになりました。
不登校の子供たちが通うフリースクールでしたので
もちろん様々な理由で学校に行けない子供達の対応でしたが、
勉強を教えるのも一部分なのですが、
生徒さんたちとテニスをしたり、農作業に出かけたり、
農作業で収穫したものを販売に行ったりと不登校
子供達に勉強以外の道も示しながら活動していました。
このフリースクールの詳しいことはまたどこかで
触れたいと思います。皆さんお楽しみに笑
このフリースクールには27歳の時から32歳の時まで
スタッフとして在籍していたのですが、
このフリースクールの経験を活かして
学校の先生になろうと思い、
元々工学部出身なので理科と数学の免許は取得できる可能性が
あったので調べてみると数学の科目の単位はある程度取っていたので
後は教職の専門科目を取得しないといけなかったので
通信制の大学で教職の専門科目を取り、
詳細は省きますが、情報と数学の免許を取得しました。
免許を取得した後に公立の教員採用試験を受けたのですが、
他の人は必死に公務員対策をして受験するにも関わらず、
私はフリースクールに在籍しながらだったので、
何の対策もせず教員採用試験を受けてあえなく撃沈。
何も対策もしていなかったので不合格もさほどショックではなく、
まあこんなものかなと思っていました。
その後もフリースクールで働いていたところ、
私立高校の数学の教員募集が新聞に載っていたので、
とりあえず受けてみるかと思って受験してみたところ、
なんと採用させて頂きました。
この年で33歳だったので、33歳でやっと正社員の職に
就くことができたのでその時にはもう本当に嬉しかったです。
もう親に心配と迷惑をかけることもこれでなくなるんだ…と
自分でも浮かれていました。
さて社会人編のフリースクール編はこの辺でさておき、
次回は社会人編の数学教諭編について書こうと思います。

自己紹介。学生時代編。

自己紹介で進言していた通り私の経歴を書いていこうと思います。
まずは学生時代までの経歴を書こうと思います。
公立の進学校を卒業し、
一年浪人して19歳で京都大学工学部電気電子工学科に入学。
2回生の時に精神のバランスを崩す。
主な主訴は髪を洗ったときに抜け毛が気になり、
自分の後頭部のあたりが毎日気になり、
街行く人が皆自分の後頭部をジロジロ見ているのではないかと
思いはじめそればかりが気になり、
病名を付けるのなら醜形恐怖とでもいいましょうか、
とにかく自分の容姿が気になり、
とても心が不快な大学生活を送っていました。
髪を洗った後に排水溝に残った髪の毛の数を毎日数えるくらい
抜け毛に敏感になっていました。
容姿にもコンプレックスがあり、抜け毛のことも気になるので
このままだと彼女も出来ないんだろうなと思っていたところ、
メル友として仲良くなった松たか子似の薬学部の彼女ができて、
おお喜びした自分を覚えています。
これで自分の醜形恐怖も物色できたかと思いきや、
やはりメンタルの不調は続いていました。
大学院に進学希望だったのですが、
心を崩したまま望んだ大学院試験に落ち、
薬剤師の卵であった大好きな彼女とも別れる。
メンタルの不調を感じながらも
大学は留年もすることもなく23歳で大学を卒業するが
就職が怖くて実家に戻りそのままひきこもる。
これだと社会不安障害なのかなと今振り返ると
思ってしまいます。
醜形恐怖社会不安障害に似たものもあったのでしょう。
引きこもっている時初めて死にたいと思いはじめる。
このままでは本当に自殺してしまうと思い、
メンタルクリニックに通院したがあまり通わなくなりました。
この時何の薬が処方されたのかは覚えていません。
恐らく抗不安薬が処方されたのかと思いますが、
あまり効きませんでした。
その後24歳の時はずっとひきこもり状態でした。
昼夜逆転した生活を送っていました。
この頃は親にも迷惑をかけていることも痛感していたので
とてもつらかったです。
このままではいけないと思い、
25歳のときに精神保健福祉士の資格を取得することを決め、
専門学校に一年間入学しました。
精神保健福祉士の国家試験に合格するも、
就職の際にまたしても引きこもってしまいました。
ある精神科に面接に行ったところ、
京大卒の学歴を面接官が見て、
あなたにはもっと他の職場があると思うと言われました。
ここまでが学生時代ということになるのでしょうか、
この頃はとにかく社会に出るのがとても怖かったんです。
今では私の世代は就職氷河期の世代と言われますが、
当時の就活状況は本当に酷くて、
京大卒でさえも派遣社員という状況でした。
私は何が怖かったかと言うと、その当時リストラも横行していて、
自分自身も将来絶対にリストラされると思いこんでしまい、
社会に出て働くのが怖かったのです。
自分は机上の勉強しかできない、
実社会で働くことはできないんだと
完全に思い込んでいました。
こうやって25歳まで学生と引きこもりの繰り返しの人生でした。
とてもとても精神的に辛かった人生です。
次回社会人編を書こうと思います。

再度自己紹介です。

皆様お久しぶりです。
現在精神科にて薬剤師をしております右京と申します。
大学在中からメンタルの不調をきたし、
引きこもりから現在なんとか薬剤師として
社会で必死の思いで生きています。
一見引きこもりから脱出したかのように見えますが、
毎日メンタルの不調を感じながらなんとかかろうじて
毎日を過ごしている状態です。
私がnoteを始めようと思ったのは、
よく引きこもりから脱出した人のブログは見かけますが、
その後その人達はどういった人生を辿っていったのかを追跡した
ブログは少ないので私自身の経験をその追跡として
noteに書いていくことに決めました。
人は毎日精神の好調・不調を感じるのが当たり前かと思いますが、
不登校や引きこもりの方々はやはり何かしら異質なものを
感じながら生きているのではないでしょうか?
生きづらさと言いましょうか、最近はHSPという言葉も出はじめ、
生きづらさをトピックとした書籍も出てきています。
私自身の日々の精神状態を書くことで何かしらのものになるのではないかと
思いながら再度ブログを書いていこうと思っています。
皆様どうぞよろしくお願いいたします。
次回は今までの私の略歴を書こうと思っています。
是非御覧ください。